日経新聞より引用
財を成した傑物が日本にもいる。東京の日比谷公園などを設計した日本を代表する造園家で、東大教授なども務めた本多静六(1866~1952)だ。
落第を悲観して古井戸に投身、留学先のドイツで切腹を覚悟――イチョウの1件に限らず、本多の自伝は一本気な「明治の男」を思い起こさせる数多くのエピソードに満ちている。
本多は「好況時代には思い切った勤倹貯蓄を、不況時代には思い切った投資を」という哲学を残している。では、日本の「公園の父」は具体的にどのような資産運用を説いたのか。骨子は3つだ。
幼少時から質素な生活に慣れていたため、校内一の貧乏とはいえ恥じたり悲しんだりする様子はみせなかったという。ただ1度、同級生から窃盗のぬれぎぬを着せられたことがあった。「お金のない惨めさを生涯忘れることができなかっただろう」(「顕彰する会」の柴崎一会長)
財を成した傑物が日本にもいる。東京の日比谷公園などを設計した日本を代表する造園家で、東大教授なども務めた本多静六(1866~1952)だ。
■一本気な「日本の公園の父」
日比谷公園のレストラン前にイチョウの巨木がそびえ立っている。通称「首賭けイチョウ」だ。近くで伐採の運命にあったが、公園を設計した本多が周囲の「無理」との反対を押し切ってここに移植させた。「自分の首に賭けてでも成功させる」と言い切ったため、この名が残る。
本多は江戸時代末期に現在の埼玉県久喜市に生まれた。9歳で父を亡くし、苦学して東京山林学校(現在の東京大学農学部)に入学。ドイツ留学で農学と経済を学び、帰国して母校の教壇に立った。
日本初の林学博士でもあった。日比谷公園や明治神宮のほか、北海道の大沼公園から福岡県の大濠公園まで数多くの公園設計を手掛けた。造園業の基礎を築いたことから「日本の公園の父」とも呼ばれている。
■「隠れた偉人」資産運用界で高い評価
●収入の4分の1を貯金するべし
●いくらかたまったら、投資にまわすべし
●無理をしないで、辛抱強く好機の到来を待つべし
●いくらかたまったら、投資にまわすべし
●無理をしないで、辛抱強く好機の到来を待つべし
最も有名なのは1番目の「4分の1貯金法」だろう。投資するにもまずは貯金というタネがなければ増やせない。本多は月給の4分の1を貯金し、臨時収入もすべて貯金に回した。最初は苦しいが、しばらくすると利子も収入になるので次第に楽になり、将来的には余裕が生じる仕組みだ。実業家でもない本多が莫大な財産を築いた原点はこの貯金にあった。ちなみに本多は資金を雪だるまに例え「初めはホンの小さな玉でも、その中心となる玉ができると、あとは面白いように大きくなる」と評している。
■投資に成功する2大ルール
さて、4分の1貯金を始めて3年目。700円に達した貯金を元手に本多は株式投資を開始し、着実に成功を収めていった。本多の学生時代は困窮のどん底だった。毎週日曜日、寄宿舎で提供される食事を抜き、浮いた食費を紙やインキなど文房具に充てた。普段は靴下も履かない。人の家を訪ねるときだけ門前で履き、帰りには門前で脱ぐ。学生生活4年間を1足の靴下で通したという。
■困窮生活が育んだ知恵と気概
自らの貧乏体験から、経済的な自立を目指して編み出されたのが「本多式利殖法」だったわけだ。「学者であっても財産をつくらなければならない。さもないと金のために自由を奪われ、精神の独立も生活の独立もおぼつかなくなる」と説いたドイツ・ミュンヘン大学の恩師であるブレンターノ教授も多大な影響を与えた。
本多によると、資産家になるために必要なのは日ごろから倹約を心がける「貯金の精神」という。果たして現代の日本はどう映るだろう。内閣府の国民経済における「家計貯蓄率」(世帯収入のうち消費に回さない部分)によると、1970年代には20%近くあったが、80年代からは低下傾向にある。直近の2013年度はマイナスに転じた。高齢化や国民1人あたりの所得低下で、貯金にまわすゆとりが乏しくなっている現状がうかがえる。
ただ、本多は「貧乏に征服されるのでなく、貧乏を征服する」との言葉も残している。やむを得ず生活を切り詰めるのではなく、積極的に倹約して逆に貧乏を圧倒する気概を持つのが蓄財の第一歩だというのだ。「逆境こそ勇気を湧き出させてくれる」と書いた本多だけに、「苦しくても負けるな」と叱咤(しった)激励したかもしれない。
■「人生即努力、努力即幸福」
25歳で4分の1貯金を始めるとその才を遺憾なく発揮し、50歳前後ですでに別荘6軒を保有し、30社あまりの大株主となった。だが、本多の名前が歴史に刻まれた理由は、その利殖ノウハウだけではなかった。
(1)常に心を快活にもつ――楽天主義 |
(2)専心その業に励む――職業の道楽化 |
(3)功は人に譲り、責は自ら負う |
(4)善を称し、悪を問わず |
(5)好機はいやしくもこれを逸せぬこと |
(6)勤倹貯蓄――四分の一貯金の実行 |
(7)人事を尽くして天命(時節)を待つ |
資産家になっても生活は基本的に質素だった。奨学金制度の整備を条件に、秩父市に所有していた2700ヘクタールもの山林を埼玉県に贈与するなど、莫大な財産のほとんどは公共事業などに寄付していった。「人生即努力、努力即幸福」と説き、前進に前進を重ねた賢人は最晩年に「自分の望みをかなえ、同時に他人の望みも満足させるところに真の幸福が存在する」と言い切り、85年に及ぶあっぱれな人生を終えた。
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